聖徳太子(厩戸王)
しょうとくたいし(うまやどのおう)
■「聖徳太子」は後世の尊称ないし諡(おくりな)である。
■「厩戸王」という名は第二次世界大戦後に推定されたものが広まった名で、古代の文献にはみられない名である。(歴史学者の小倉豊文が1963年の論文で「生前の名であると思うが論証は省略する」として仮の名としてこの名称を用いたが、以降も論証することはなく、田村圓澄が1964年発刊の中公新書『聖徳太子―斑鳩宮の争い』で注釈なしに本名として扱ったことで広まった。)
■古代文献では下記のような名とされている。
「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」
「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」
「豊耳聡聖徳」や「豊聡耳法大王」
『日本書紀』では、名前から「上宮厩戸豊聡耳太子(うえのみやのうまやととよとみみのひつぎのみこ)」と呼ばれたとしている
年表
- 574年橘豊日皇子(用明天皇)の第二子として厩戸皇子誕生
- 585年用明天皇即位
- 587年用明天皇崩御。丁未の乱(ていびのらん)、崇仏派の蘇我氏につき勝利。
- 587年崇峻天皇即位
- 592年崇峻天皇暗殺、蘇我馬子が東漢駒(やまとのあやのこま)に命じた。
- 593年推古天皇即位・厩戸皇子は摂政となる。四天王寺を建立。
- 594年仏教興隆の詔を発した。
- 595年高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となる。
- 596年に飛鳥寺が建立
- 597年吉士磐金(きしのいわかね)を新羅へ派遣。
- 600年新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる
- 601年斑鳩宮(いかるがのみや)を造営した。
- 602年再び新羅征討の軍を起こしたが結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。書生を選び、来日した観勒に暦を学ばせる。
- 603年12月5日いわゆる冠位十二階を定めた。太秦、広隆寺造営。
- 604年4月3日いわゆる十七条憲法を制定した。
- 605年諸王諸臣に、褶(ひらみ)の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む。
- 607年屯倉(みやけ)を各国に設置する。小野妹子、鞍作福利を使者とし隋に国書を送った。法隆寺(斑鳩寺)建立。
- 613年難波から飛鳥までの大道を築く。日本最古の官道であり、現在の竹内街道とほぼ重なる。
- 614年犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)らを隋へ派遣する(最後の遣隋使となる)。
- 615年までに『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』を著した。これらを「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」と総称する。三経の注釈書という意味。
- 620年厩戸皇子は馬子と議して『国記』『天皇記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記(おみむらじとものみやつこくにのみやつこももあまりやそとものをあわせておおみたからどものもとつふみ)』を編纂した。
- 622年斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に薨去し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は薨御した。