荼枳尼天(だきにてん)
そこに小さなお稲荷さんがあり、お寺と神社がくっついているのかな?と不思議に思って額束(がくづか)をみると読めない漢字が書いてあった。
とりあえず写真を撮りネットで「稲荷」「神様」と調べてみると
吒枳尼天(ダキニ天)
と読むことが判明した。
最近古事記やらで少し勉強しはじめた日本神話の中では聞いたことのない名前である。
調べてみてわかったのは、まずこのお稲荷さんは神社ではなく寺院であるということ。
改めて写真を見返すと、なるほど赤い鳥居がない。(柵が赤かったので鳥居があった気がしていただけだった)
お稲荷さんというのは宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)か、近い神様が祀られているものだとてっきり思い込んでいたので驚きだった。
調べたことを以下にまとめておく。
荼枳尼天(だきにてん)
荼吉尼天
吒枳尼天
吒天(だてん)
ダキニ天
と呼ばれる。荼吉尼"天"というのは日本独自の呼び方で、中国では荼吉尼とのみ記される。梵語のダーキニーを音訳したもの。
荼枳尼天の起源であるインドのダーキニーは、裸身で虚空を駆け、人肉を食べる魔女である。ダーキニーの起源は明らかでないが、ヒンドゥー教もしくはベンガル地方の土着信仰から仏教に導入されたと考えられている。
日本では稲荷信仰と混同されて習合し、稲荷権現、飯綱権現(いづなごんげん)とも同一視される。
その理由とは
そもそも稲荷信仰は、平安京ができる以前よりその土地にあった。渡来系の秦氏(はたし)が信仰する稲や屋敷の神で、宇迦之御魂大神が主であった。そのような土地に平安京ができることになり、王政鎮護の「西寺」「東寺」が建てられた。そして「東寺」は嵯峨天皇(さがてんのう)の依頼により空海(くうかい)が密教の力で平安京を守るための拠点となった。
東寺に五重塔を建設することになった空海は、秦氏の聖域である伏見稲荷周辺の森の材木に目をつけた。「新しく建てた五重塔には稲荷神の霊力も込められている」とアピールもできる名案だったが、聖域なので伐採したことで祟りなどの噂が広まった。
そこで東寺に力を貸してもらうため、稲荷信仰の普及に協力することになったということらしい。(もともと空海の母の出自である阿刀氏(あとうじ)は秦氏の一族だったと言われている)
密教と稲荷信仰はセットで広まっていった。
まとめるとこれが原因となったようだ。
密教における荼枳尼は、万能の力をもつ天女であり、この万能の天女を稲荷神と習合させて「稲の神であり、屋敷の神であり、様々な職業を成功させる万能の天女」として広まったのだそう。
稲荷神=荼吉尼天は、食物神であった宇迦之御魂神とも習合した。この頃これらの神の使いはキツネになったらしい。キツネが稲荷神の眷属になったのはいくつか説があるようなのだがここでは割愛する。
キツネ自体も信仰の対象になっている理由としては、キツネは田畑を荒らすネズミを食べてくれるありがたい存在だったからだとのことである。
なぜ宇迦之御魂神=荼吉尼天だったはずなのに神社に荼吉尼天は書かれてないのか
上記の内容からすると、稲荷神社には荼吉尼天が祀られているはずである。しかし現在数ある稲荷神社には荼吉尼天を祀るところは少ないとのこと。それには理由がある。
明治に入り神仏分離が進められ、神社から仏教に関するものが消えたのだ。国は神道国強化を目指していた。
そこで稲荷神社から荼吉尼天が消えたのであった。
神様であるお稲荷さんが、少し怖いイメージがあるのは密教のイメージが残っているからだろうということだ。
余談
お稲荷さんを調べていると、あの「おいなりさん」の由来がわかった。
もともとは一部の農村で、田畑を守ってくれるキツネにお礼としてキツネの巣に「ねずみの油揚げ」を捧げる習慣があったそうだ。
しかし荼吉尼天信仰を広めた密教では殺生は好ましくない。
そこでキツネ信仰と密教の折衷案として豆腐をネズミの肉に見立てて油揚げにし、稲荷神社のキツネにお供えするということになったそうだ。
なんと「おいなりさん」「いなり寿司」の由来はネズミの油揚げだった。そしてそれを豆腐の油揚げにしたのは密教だったということだ。
カラオケでモテるクリスマスソング(男性)
クリスマスの時期になると、クリスマスソングを口ずさみたくなる。
いざカラオケで歌おうと思うとタイトルを忘れてしまうこともあると思うので、超定番ソングからカラオケで歌うとモテる(個人的見解)曲を紹介していく。
- 「クリスマス・イブ」/ 山下達郎
- 「クリスマスキャロルの頃には」/稲垣潤一
- 「いつかのメリークリスマス」/B'z
- 「白い恋人たち」/桑田佳祐
- 「冬がはじまるよ」/槇原敬之
- 「愛のかたまり」/KinKi Kids
- 「WISH」/嵐
- 「Last Christmas」/EXILE
- 「チキンライス」/浜田雅功&槇原敬之
- 「杏奈」/甲斐バンド
- 「サンタクロース」/ELLEGARDEN
- 「スノースマイル」/BUMP OF CHICKEN
1.「クリスマス・イブ」/ 山下達郎
日本のクリスマスソングの代名詞的存在といえるこの曲。JR東海のCMもめちゃくちゃ可愛い。山下達郎さんの独特な歌声が悲しくなりすぎず聴き終わった後にも心地良い余韻が残る名曲。
2.「クリスマスキャロルの頃には」/稲垣潤一
キラキラとした歌声が忘れられなくなる一曲。上記で紹介した「クリスマス・イブ」同様に、歌詞にストーリーを感じさせる。クールな大人の恋愛。相手の女性を想像するとなんとも切ない。ちなみに作詞は秋元康さん。
3.「いつかのメリークリスマス」/B'z
歌い出しが優しいこの曲。一生懸命だった若い頃を思い出している歌詞は情景が浮かびやすく、カラオケでも聞き入ってしまう。いつかの、という過去のクリスマスを歌った歌だが幸せが続いている雰囲気を残していてモテる曲だと思う。
雪の降るMVも有名なこの曲。歌詞も曲もクリスマスの切ない雰囲気たっぷりで記憶に残る名曲。カラオケで歌うときは、最後の最後の「涙・・・」の部分をぜひキッチリ決めていただきたい。
5.「冬がはじまるよ」/槇原敬之
冬のはじまりの歌なので入れるか迷ったが、歌詞中に「去年のクリスマスはケーキを売ってたけど」とあるのでクリスマスソングに入れた。終始かわいらしい歌詞で、明るい曲。テンポが良い曲なので大人数のカラオケでも雰囲気を盛り上げてくれる。
6.「愛のかたまり」/KinKi Kids
KinKi Kidsといえば他にもクリスマスソングが有名だが、個人的にはカラオケで歌うならこちらがおすすめ。女性目線の歌詞なので女性人気が高い曲。女性で歌える人も多いのでデュエットにも良い。
7.「WISH」/嵐
明るいラブソングでもあるクリスマスソング。まさにアイドル曲という歌詞で、女性が求める男性像を歌っているような曲。(個人的見解)
上手く歌えればモテると思うが、高めのキーで同じようなメロディーが続くので上手くない場合残念なかんじになる可能性もあるので注意。複数人で歌うと上手くない場合でもカラオケで楽しく盛り上がるのでおすすめ。
8.「LAST CHRISTMAS」/EXILE
筆者はワムのLast Christmasが大好きなのだが、カラオケでモテる曲ということであえてEXILEさんの方を記載しておく。英語で事故るよりは日本語で歌いやすくなっているこちらを丁寧に歌った方がモテると思う。
メロディーを雰囲気で歌える人も多いので、デュエットに誘ってみるのもおすすめ。
クリスマスの恋愛ソングが照れ臭いという人が歌うにはもってこいの曲。浜ちゃんがまさにそういう雰囲気を出しながら歌っていて、その無骨な感じが良い。
10.「杏奈」/甲斐バンド
カラオケで歌うと盛り上がるクリスマスソング。一緒にいる相手がこの曲を知らなくても、曲が終わる頃にはいつのまにか一緒に口ずさんでいる。「杏奈」の部分を相手の名前にして呼ぶのは痛いのでおすすめしない。(個人的見解)
11.「サンタクロース」/ELLEGARDEN
邦ロック好きに刺さるクリスマスソング。爽やかなバンドサウンドと軽快な英詞は、まさにモテる曲だと思う。
12.「スノースマイル」/BUMP OF CHICKEN
「天体観測」が有名なBUMP OF CHICKENのバラード曲。歌い出しの歌詞からモテる要素満載の曲。全体を通して低音が続くので高いキーが苦手な人にもおすすめ。低音を丁寧に歌ってほしい名曲。
また思い出したら追記していきます。
聖徳太子の謎
聖徳太子には伝説がたくさんあり、謎に包まれている。
なんと聖徳太子はいなかった!?という聖徳太子不在説もあるというから驚きである。
①出生の伝説
母・間人皇女(はしひとのひめみこ)は西方の救世観音菩薩が皇女の口から胎内に入り身籠もり、厩(うまや)の前で生まれた。
②豊聡耳の伝説
ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。請願者の数は10人に上ったが皇子はすべての人の言葉を一度で聞き取り、的確に答えたという。これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった。この説は文献によっては8人であったり、36人だったともいわれている。
③予言の伝説
「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」と日本書紀に書かれており、未来記という予言書があったのではないかと言われている。
④南嶽慧思の生まれ変わり伝説
天台宗開祖の南嶽慧思(なんがくえし)の生まれ変わりだという説がある。
中国でもこの説は知られており、さらに鑑真渡日の由来だとする説もある。
⑤飛翔伝説
太子は数百頭の良馬の中から四脚の白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、これを飼養。その後太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て京都へ帰還したという。
⑥片岡山伝説(飢人伝説)
太子は片岡に遊行したとき、飢えた人が道に臥していた。名前を聞いても返事がなかった。そこで太子は飲食物を与え自分の着ていた衣服でその人を覆い、「安らかに寝ていなさい」と語りかけ歌を詠んだ。翌日使者を遣わせて見に行かせたところ、その人は亡くなっており、それを聞いた太子は大いに悲しんだ。そしてその場所に埋葬し墓を固く閉じさせた。後日「過日埋葬した人は普通の人ではない。真人(ひじり)に違いないと語り、墓を見に行かせた。
不思議なことに墓は動かした様子もないのに屍も骨もなくなっていて、ただ棺の上に衣服がたたんでおいてあったそうだ。太子は再び使者を遣わせ、自分がかつて与えた衣服を持ち帰らせ以前のように身につけたという。
⑦聖徳太子不在説
聖徳太子は英雄的な人物像として作り出された架空の人物だという説があるらしい。
この説では日本書紀編纂の際に、藤原不比等が道慈に書かせたものだという。
厩戸王の存在は文献に見られるが、聖徳太子の功績である「憲法十七条」も「冠位十二階」も、彼が主体として確実に関与していたという証拠がないらしい。
実在した厩戸王に、後年になり数々の架空のイメージや功績を捏造したというのだろうか?
教科書に載っていた当たり前だと思っていた事実も、本当ではないのかもしれない。
文献には著者の思惑がある。そして時代背景、海外とのつながり、いろいろなことを踏まえて、歴史を勉強していきたいと思う。
推古天皇
(すいこてんのう)
額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)
豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)
豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめがみ)
炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)
父は第29代欽明天皇(きんめいてんのう)、母は蘇我馬子の姉の堅塩媛(きたしひめ)。欽明天皇の息子で異母兄にあたる第30代敏達天皇(びだつてんのう)の皇后であり、後に天皇となる。
聖徳太子の父である第31代用明天皇は同母兄。また聖徳太子の母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は異母姉妹にあたる。また聖徳太子妃の菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)は敏達天皇と推古天皇の皇女。
■漢風諡号の「推古天皇」は代々の天皇と共に淡海三船(おうみのみふね)によって名付けられたとされる。『古事記』ではこの天皇までを記している。確かな記録が残っている最古の天皇とされる。
■陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町大字山田にある磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)に治定されている。子の竹田皇子との合葬陵墓で、宮内庁上の形式は方丘。遺跡名は「山田高塚古墳」で、方墳または長方墳である。
聖徳太子(厩戸王)
しょうとくたいし(うまやどのおう)
■「聖徳太子」は後世の尊称ないし諡(おくりな)である。
■「厩戸王」という名は第二次世界大戦後に推定されたものが広まった名で、古代の文献にはみられない名である。(歴史学者の小倉豊文が1963年の論文で「生前の名であると思うが論証は省略する」として仮の名としてこの名称を用いたが、以降も論証することはなく、田村圓澄が1964年発刊の中公新書『聖徳太子―斑鳩宮の争い』で注釈なしに本名として扱ったことで広まった。)
■古代文献では下記のような名とされている。
「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」
「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」
「豊耳聡聖徳」や「豊聡耳法大王」
『日本書紀』では、名前から「上宮厩戸豊聡耳太子(うえのみやのうまやととよとみみのひつぎのみこ)」と呼ばれたとしている
年表
- 574年橘豊日皇子(用明天皇)の第二子として厩戸皇子誕生
- 585年用明天皇即位
- 587年用明天皇崩御。丁未の乱(ていびのらん)、崇仏派の蘇我氏につき勝利。
- 587年崇峻天皇即位
- 592年崇峻天皇暗殺、蘇我馬子が東漢駒(やまとのあやのこま)に命じた。
- 593年推古天皇即位・厩戸皇子は摂政となる。四天王寺を建立。
- 594年仏教興隆の詔を発した。
- 595年高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となる。
- 596年に飛鳥寺が建立
- 597年吉士磐金(きしのいわかね)を新羅へ派遣。
- 600年新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる
- 601年斑鳩宮(いかるがのみや)を造営した。
- 602年再び新羅征討の軍を起こしたが結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。書生を選び、来日した観勒に暦を学ばせる。
- 603年12月5日いわゆる冠位十二階を定めた。太秦、広隆寺造営。
- 604年4月3日いわゆる十七条憲法を制定した。
- 605年諸王諸臣に、褶(ひらみ)の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む。
- 607年屯倉(みやけ)を各国に設置する。小野妹子、鞍作福利を使者とし隋に国書を送った。法隆寺(斑鳩寺)建立。
- 613年難波から飛鳥までの大道を築く。日本最古の官道であり、現在の竹内街道とほぼ重なる。
- 614年犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)らを隋へ派遣する(最後の遣隋使となる)。
- 615年までに『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』を著した。これらを「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」と総称する。三経の注釈書という意味。
- 620年厩戸皇子は馬子と議して『国記』『天皇記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記(おみむらじとものみやつこくにのみやつこももあまりやそとものをあわせておおみたからどものもとつふみ)』を編纂した。
- 622年斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に薨去し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は薨御した。